山口県周辺で活躍したキハ55系について (2006/2/4)
沖田典之
◆ まえがき
Tomixからキハ55系が発売されることになりました。このキハ55系、Nゲージ界では、およそ四半世紀前に学研から完成品が発売されたのが最初ですが、実車の方はJRの発足を目前に控えた昭和61年度に全車廃車。キハ58系の陰に隠れたマイナー形式のためか省みられることも少なく、長い間、決定版となる製品が発売されませんでした。ようやく今回の発売の運びとなりましたが、国鉄解体から早20年近く。キハ55系の活躍を知らないモデラーも増えてきたことから、Tomixキハ55系購入計画の一助となるように、山口県周辺の動きを中心に実車解説をしてみることにしました。ただし、山口県内で直接使用されていない形式については、周辺での使用実績が記述してあります。
また、今回Tomixから発売されるのは、キハ55、キハ26、キロ25、キロハ25、キユニ26の5形式で、製品化されなかったキニ26、キニ55、また、強力試作形のキハ・キロ60形の説明は省略します。
私自身若輩者であり、実見した部分はわずかです。後述の「準急色」なんぞは見たこともない年齢なので、古い編成等は鉄道誌に掲載された写真等から推定したものが多く、誤り等が多々あると思われます。誤りや不明部分の御教示、御指摘等をいただければ幸いです。
◆ 用語の解説(国鉄の等級表示について)
これから実車解説をするにあたり、等級の変更について触れておきたいと思います。最近の若い鉄道ファンにとって等級制は、もはや太古の制度らしく、なかなか正しく認識をされていないようです。知識をひけらかすようで恐縮なのですが、解説にあたり2等車や3等車という表現を避けることが出来ないので、簡単に解説しておきます。
明治5年(1872年)、新橋〜横浜間が開通して以来、日本の鉄道は長らく3等級制(等級記号イ→1等、ロ→2等、ハ→3等)でした。これが、昭和35年7月1日、1等が廃止となり2等級制となります。1等が廃止されたことにより、それぞれ呼称格上げが行われました(旧2等・ロ車→1等、旧3等・ハ車→2等)。更に昭和44年5月10日、等級制が廃止されてモノクラス制となります。それまでの1等(ロ車)に乗車する場合、乗車券の他にグリーン券を別途購入することとなり、この制度が現在まで続いています。
キハ55系はこの2度の制度変更をまたいで存在しているので、話がややこしくなります。キロ25を例にすると、昭和34年、新製当初は2等車として落成したキロ25はわずか1年後の昭和35年に等級変更で1等車となります。その後、昭和42年から2等車格下げが始まり、昭和44年5月1日の等級制廃止を迎えます。この日までに全車の格下げが完了していれば、2等車が普通車に名称変更するだけだったのですが、一部の車の格下げが昭和44年5月以降に持ち越しています。キロ25
51を例にとると、普通車格下げは昭和44年7月31日。5月10日が等級制廃止ですから、3ヶ月弱程グリーン車時代を経験しているのです。もっとも数年前から格下げが確定しているこの車に、手間とお金をかけて帯の色を塗替えたり、グリーン車の四つ葉のクローバーマークを貼ったかどうかは不明ですが、こういう事例があることも知っていただければと思います。
◆ キハ55系一族、その塗装の変換
キハ55系新製開始(昭和31年から)当初は、一般に「準急色」と呼ばれた塗装を身にまとっていました。これは、車体全体に黄色味の強い「クリーム2号」を塗り、車体中央(窓下に細線)と樋部分を「赤2号」で配したものでした。最近、一部私鉄において旧国鉄キハ20形にこの塗装を施した車が出現しており、気になる方はこちらを参考にしてみてください。
昭和34年9月から東北本線急行「みやぎの」用キハ26、キロ25から使われ始めた塗装は、「クリーム4号」をボディーに塗り、窓まわり、樋、車体スソに「赤11号」を配しました。この塗装は、一般に「急行色」と呼ばれますが、今日我々がキハ58系などで「国鉄急行色」等と呼んでいる塗装とは、運転席周辺の塗り分けが異なっているので、今回、この説明では便宜的に「急行色T」と呼ぶことにします。急行として使用されることになったキハ55系については、順次この塗装で落成、在来車は変更されました。
昭和36年から新型急行用DCとしてキハ58系が量産されることになり、塗装は前述の「急行色T」から塗り分けの一部が変更された、お馴染みの「急行色」(「クリーム4号」「赤11号」の配色は変わらず)が登場しました。キハ55系も準急色を廃し、この色に統一されることになりました。また、「急行色T」塗装車も順次塗装変更され、キハ55系の塗装は統一されました。これを便宜上「急行色U」と呼ぶことにします。
昭和40年代に入り、キハ58系が全国のDC急行を席巻した後は、キハ55系は各地の急行増結車や普通列車用として運用されるようになります。しかしキハ20系やキハ10系でお馴染みの、「一般色」(「クリーム4号」と「朱4号」のツートンカラー)に変更されることはなく(ただし、郵便荷物車等に改造されたものを除く)、「急行色U」を保持し、面目を保ちます。
しかし、「急行色U」については、昭和40年代後半から樋部分と正面上部分の「赤11号」がかなりの数で省略されるようになりました。グリーン車の淡緑帯同様に、いつの間にか消えてしまった、という感じでした。それでも山陰本線を中心に運用されていた、米子、西鳥取、福知山の各区に配置されていた車については、なぜか正面の運転席上部分のみ、赤11号帯が終焉期直前まで残されていて、これらの車は昭和50年代前半までは急行列車の増結用として気勢を上げていた事は記憶しておくべきでしょう。
昭和50年代に入ると、電化の推進、合理化による列車削減、編成の短縮等でDC急行という存在が数を減らし始めます。このため、急行運用という本来の仕事から失業したキハ58系が、堂々とローカル運用に入り込んでくるようになりました。これと前後して、ローカル線のクイーンとして君臨したキハ55系も、ついにキハ40系等に使われて始めた、車体全面に「朱5号」を塗る「首都圏色」に塗装変更をされる事になります。しかし、これは全車に及ぶことはなく、一部のみがその対象となりました。残念ながら山口県内では、厚狭区、小郡区、岩国区共にキハ55系の「首都圏色」化が早くに進行し、早期に廃車されたものを除いて「急行色U」で終焉を迎えた車はおそらくなかったものと思われます。
●キハ55形
準急用気動車の始祖で、昭和31年に5両が試作され、上野〜日光間の準急「日光」でデビュー。塗装は軽快な「準急色」で、内装も当時の最新急行用客車ナハ10系とほぼ同様の腰掛を装備して、好評を博しました。それで蒸機牽引の急行よりも俊足であれば人気が出ない訳がなく、昭和36年までに216両もの大量生産がされ、全国の準急・急行列車で活躍することになりました。外観では昭和31〜32年に生産された1〜46がバス窓装備。昭和33〜36年まで生産された101〜270がモデルチェンジされ、一段上昇式窓(キハ58系と同じ)を装備して両番台車の大きな相違点になっています。また、1〜15のみ、DT19台車を採用していますが、他はDT22に変更されています。
山口県では、小郡区、岩国区に配置され、急行「山陽(岡山〜博多間)」、準急「あきよし(山口〜博多間)」「にしき(岡山〜岩国間・呉線経由)」「ちどり(広島〜米子・芸備木次線経由)等で活躍しました。
昭和36年からは後継の急行用気動車キハ58系の生産が開始され、早くも第一線を追われることになりますが、その後も主要急行列車への増結や、新しい準急列車増発時等に使用され、親しまれます。
昭和44年から53年にかけて、4両がキニ56に改造され、四国と常磐線で使用されました。
その後、急行をキハ58系が独占した後はローカル運用が中心となりましたが、2エンジン搭載が幸いして勾配路線で重宝されました。昭和50年代中頃から老朽化等を理由に廃車が進行し、昭和61年度をもって形式消滅しました。
残念ながら、JRに継承された車両はありません。
●キハ26形
キハ55に遅れること2年、昭和33年4月から新製が開始された1エンジン搭載車です。DC準急列車が増加する中で、平坦区間だけを走る列車も出現してきたため、2エンジン搭載のキハ55ばかりでは不経済という理由で登場しました。新製開始当初の0番台はバス窓車でしたが、半年後にはキハ55同様のモデルチェンジが実施され、一段上昇式窓となった101〜の生産が始まりました。このためキハ26のバス窓車は、キハ55の46両に比べて22両と少数です。
昭和36年度からはキハ58系の生産が始まり、キハ26の生産はそれまでの3年間と短期間でしたが、それでも194両もの大量増備で全国津々浦々の急行・準急列車で活躍しました。山口県内では上記の「山陽」や「あきよし」等で活躍。キハ58系生産開始後の処遇はキハ55と同様です。
キハ26は後述のとおり、昭和42年度から昭和44年度にかけて、キロハ25(15両)とキロ25(61両)の全車が2等車格下げ後にキハ26に編入されているので、総数270両の大世帯になります。
しかしわずか4年後の昭和48年度からはキユニ26(25両)、キニ26(4両)への改造タネ車に29両が供出されて数を減らします。しかも、この改造のタネ車はバス窓車有り、一段上昇窓車有り、キロハ・キロの編入車有りと大変ややこしく、キハ26の履歴を複雑にしています。
その後、昭和50年代中頃から老朽化で急激に数を減らしましたが、山口県では案外長命で、昭和59年頃まで首都圏色を身にまとい活躍を続けます。話しは前後しますが、昭和50年頃の山口線の状況は、普通列車のピカイチ車両といえば、急行「つわの」間合い運用のキハ58系(唯一の冷房車)は別として、他はキハ23やキハ20(25)が主力でした。場合によっては、オールロングシートのキハ35や座席のモケットがペラペラのキハ17がまだ幅を利かせていて、そんな中にキハ26が連結されていると喜んで乗ったものでした。ずらりと並んだクロスシートや便所とは別に設置された洗面台等の装備は風格を備え、腐っても準急用車両、まさに「掃きだめの中の鶴」でした。キハ47系投入後は老朽化や陳腐化は免れず、次第に影が薄くなり、1両また1両と休車又は廃車。このまま県内のキハ26も全廃かと思われました。
ところが昭和60年3月14日全国ダイヤ改正では、地方主要都市圏においてデータイムにおける等時隔で頻度を増した列車体系を整備する目的で、「試行列車(α列車)」が設定されることになります。山口県内は下関周辺で設定され、山陽本線は下関〜小月、山陰本線では下関〜小串間に区間列車が増発されました。山陰本線は既存のDCだけでは運用の増加に対応出来ず、廃車を前にして使われずに留置されていたキハ26数両がこの運用に駆り出され、最後の花道を飾ることになりました。中には激しく退色していたキハ26もありましたが、他の車両に混じってよく活躍しました。「試行列車(α列車)」は、幸い乗車率も好調だったことから昭和61年3月3日ダイヤ改正で、そのほとんどが定期列車に格上げされましたが、編成短縮が図られたために運用車両数は減り、山口県のキハ26の命運はここに尽きました。
●キロ25形
昭和34年から2年間で61両が製造された2等車。国鉄ディーゼルカー初めての全室2等車でもあります。後のキロ28と異なって、運転台を装備します。側窓は全車一段上昇式で、他の仲間達に存在するバス窓車はこの形式だけありません。座席は回転式腰掛で、リクライニング機構なし。
「準急色」時代は、帯色の変更を2回も実施しました。新製当初は、2等車ということで客車並に青帯を配しましたが、編成を統一するという目的で他車同様に赤い線に塗り替えられました。ところが3等客の誤乗が多発したため、短い間に再び青い線に変更されました。当時の急行「山陽」の複数のカラー写真を見ると、確かにキロ25が青帯で写っているものと赤帯に写っているものがあります。
昭和34年、天王寺〜白浜口(現・白浜)で運転の準急「きのくに」の増結や、博多〜小倉〜大分〜熊本間準急「ひかり」のキロハ25置き換え(キロハ25は博多〜小倉〜都城間運転に変更)等でデビュー。その後、全国の急行、準急の2等車として大活躍しました。山口県に関係する列車だけでも、急行「山陽(岡山〜博多間)」、準急「あきよし(山口〜博多間)」「やくも(米子〜博多間)」「にしき(岡山〜岩国間・呉線経由)」等に連結されています。
しかし、華々しい活躍はわずか5年程度で、昭和30年代後半から始まった急行用車両の冷房化では、気動車の優等車両はキロ28のみがその対象になりました。その結果、選から漏れたキロ25は昭和42年から44年までの間に格下げが実施され、キハ26に編入、400番台を名乗ります。車内設備はそのままとされ、各地の急行列車の指定席車として重宝されることとなりました。山陰本線では昭和50年代前半まで、急行「石見」等で、グリーン車はキロ28、指定席車がキハ26
400番台、自由席車がキハ58又はキハ28という編成を見ることが出来ました。小郡区においては昭和43年7月から、もともと配置されていたキロ25
51が格下げされキハ26 451を名乗り、昭和52年にキユニ26
20に再改造されるまで在籍していました。
その後、前述のとおり昭和51年度から7両がキユニ26に、21両が通勤形(ロングシート化・塗装は急行色のまま)改造でキハ26
600番台に改造されました。601〜616は東唐津区に配置、筑肥線の運用で博多駅まで足をのばしていたので、博多駅ホーム等でその姿をご覧になった方も多いのではないでしょうか。617〜621は南九州用で車内中央部の4ボックスのみクロスシート(キロ25用のオリジナルシート!)がそのまま残されていて、特異な車内レイアウトでした。私事ですが、僕は昭和58年に志布志線でこのキハ26
600に初めて乗車しましたが、最近ではキハ58等でおなじみの一部ロングシート化車両も当時は大変珍しく、車内にいた他のお客さんのひんしゅくを買いながらも車内の写真を撮影して帰りました。
なお、再改造されなかった33両も含めて、61両全てが昭和60年度までに廃車となっています。
●キロハ25形
昭和33年から昭和35年までの間に、15両が新製された2・3等合造車。
2等(ロ)車側にキロ25同様の運転台が付いています。車内は2等室が回転式腰掛け(非リクライニング)装備で、3等室が後ろ側でキハ26等と同様のボックスシートです。おもしろいのは、他の1エンジン装備車、キハ26やキロ25がエンジンを運転台寄りに装備しているのに対して、キロハ25だけは後ろ側に装備している事です。おそらく、運転台側にある2等車内の振動や騒音を少しでも抑えようとしての処置と思われ、当時の国鉄技術陣の気配りなのでしょう。今回、Tomixの試作品を見ると床下を他車の流用で済ませずに、キロハ25専用の床下パーツを起こして模型化しています。同社のやる気を感じる部分ですので、ぜひ手にとって他車と比較してみてください。
昭和33年製造の1〜5は、3等車客室窓だけがバス窓で外観の大きな特徴。博多〜小倉〜大分〜熊本間準急「ひかり」と上野〜平間運転の準急「ときわ」でデビュー、その後、西日本では陰陽連絡列車「たじま」「丹後」「丹波」「みまさか」、四国の「阿波」「いよ」「土佐」等で使用されました(いずれも準急)。
昭和30年代後半から、気動車急行の冷房化が始まりましたが、1等車(旧2等)の冷房改造は、リクライニングシートを装備したキロ28に絞られました。選から漏れたキロハ25は昭和42年から格下げが施行され、形式はキハ26
300番台を名乗ります。車体等は未改造で1等室内はそのまま残されて普通車解放されています。格下げ後、中国地方では浜田、鳥取区に都合6両が配置され、山陰本線を中心に活躍しました。昭和48年から15両全てがキユニ26へ再改造され区分番台が消滅しましたが、それまでは全車「急行色U」を身にまとっていたようです。
●キユニ26形
昭和48年から昭和55年までの8年間に、キハ26をタネ車にして25両が改造名義で登場しました。タネ車がキハ26一次型(バス窓)、二次型、キロハ25一次型(バス窓)、二次型格下げのキハ26
300番台、キロ25格下げのキハ26
400番台と多彩な顔ぶれのため、その形態は多様です。
今回Tomixは、キロハ25(二次型)がタネ車のキユニ26を製品化します。両数的にも9両(4、5、7、8、10〜13、17)と最大勢力であり、特に四国に配属されていた10〜13、17が改造当初、「急行色U」に塗装されていたので選ばれたものと推測されます。
山口県内の路線には直接の配置はありませんでしたが、4、5、8の3両が浜田区に配置、山陰本線で運用されて山口県にも顔を出していたようです。この3両は後に鳥取区にいた7と共に岡山区に集結したので、岡山駅在来線ホームで見かけられた方がいらっしゃるかもしれません。四国は当初4両(他形式からの改造を含め総計7両)共に高知区の配置でしたが、10が大分区に転属した以外は高松区に配置替となりました。急行列車に併結することが多いためか「急行色U」で塗装され、四国独特の丸い小さなヘッドマークを付けて高松駅ホーム端でその姿を見ることが出来ました。
塗装については「急行色U」だけでなく、使用される路線に応じて「一般色」で塗装されて落成した車も存在します(Tomixさん、是非一般色も製品化してください)。どちらの塗装も昭和54年頃から順次「首都圏色」に塗装変更されました。
キユニ26は鉄道郵便荷物輸送が縮小された昭和59年前後から廃車が進み、昭和61年度に最後の1両が廃車となり形式消滅しました。国鉄がJRになったのは、昭和62年4月なので、JRに継承された車両はありません。
資料1 / 資料2
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