(敬称略)

 

「SLやまぐち号」は、昭和54年8月1日に山口線の小郡駅(現:新山口駅)〜津和野駅間に復活して以来、乗車数が170万人を突破しました。「SLやまぐち号」の機関車C57−1号機(愛称:貴婦人)が誕生70周年を迎え、平成29年D51-200号機への交替が決まりました。




 D51 200号機 新型客車5両と津和野に向けて山口線試運転
平成29年7月25日午前5時
新山口駅ホームにて 村田郁夫撮影
 

C57-1 C56-160 なにわ号
重連プッシュブル  平成22年10月9日 杉山誠


C57-1 C56-160 あすか号
重連プッシュブル 平成22年10月16日 杉山誠


平成19年8月1日 津和野〜船平山 上り
C56−160後部補機運転
杉山誠



平成21年9月21日下り 12系ユウユウサロン岡山 地福にて
杉山誠  


 

写真スポット=写真を撮るならココ=
 

長門峡鉄橋

長門峡駅から津和野方面に歩いて5分 近くに駐車場もあります 初心者定番地点!

 

山口市宮野大山路(宮野〜仁保間)

国道9号線沿い山口グリーンスタジアム野球場入口交差点を津和野方面に向かって右折車で直進2分山口NF電子進入路前の大山路公民館近くで下車(この先は車での進入は不可)右に沿った細い道路を直進3分で目的地に着きます

 

山口市大歳 吉敷川鉄橋(大歳〜矢原間)

大歳駅から山口矢原方面へ歩いて5分 桜並木のある鉄橋です


 

レトロ客車5両

1号車 オハ12 703

 

2号車 スハフ12 702

 

 

 

3号車 オハ12 702

 

 

 

 

4号車 オハ12 701

 

 

 

 

5号車 オハフ13 701

 

 

 

 


 

C57−1


C57−1正面


運転席1


運転席2


運転席3


ヘッドマーク

 

C56−160


C56−160全景


C56−160給炭中


 運転席1


運転席2


 


@ C57−1(下り重連)
宮野〜仁保間にて(H15年6月22日)
黒田和幸 


A 57−1・C56−160(重連運転)
長門峡〜渡川間にて(H15年6月29日)
黒田和幸 

 


 BC56−160 (上り重連)
篠目〜仁保間にて(H15年6月29日)
黒田和幸


 


山口号復活前C58−1試運転
(昭和54年8月)
杉山誠


津和野〜船平山C58−1
(昭和56年9月)
杉山誠


なつかしき小郡機関庫
C57−1・C56−160・マイテ49
小郡機関区撮影会にて
(昭和62年6月27日)
杉山誠

 


 


C57−1宮野〜仁保下り
(昭和54年8月中旬)
沖田典之  
 


C57−1+C58-1重連山口駅発車上り
(昭和58年11月27日)
沖田典之 
 


C57-1+14系座席車寿ちよだ号
宮野駅通過上り
(昭和58年10月14日)
沖田典之


C58-1+C57-1+旧形客車×5長門峡付近下り
(昭和57年5月31日)
沖田典之


C58-1豊の国号として応援別府駅にて
(昭和56年12月12日)
沖田典之


長門峡付近にて9521列車 下り
(平成15年10月11日)
沖田典之
 

 


 

C57−1

小郡転車台にて

マイテ49−2


C58−1 宮野駅にて 下り(昭和57年春)
梅田明俊 



平成16年12月30日
篠目駅にて C56−160試運転
 
 


平成16年12月30日
篠目駅にて
C56−160とキハ47−179
 


平成17年1月2日
徳佐〜船平山 下り
C56−160 津和野稲荷初詣号 明治・欧風展望客車2両

佐藤朋史
 



 平成16年11月
宮野〜仁保 下り

 


 平成17年4月23日
宮野〜仁保 下り

中川貴博
 


 
平成17年4月3日
 マヤ34−2005(京都車) 山口線徳佐駅にて
 佐藤朋史


仁科幸雄 平成16年春
宮野〜仁保間 下り


中川貴博
平成18年1月2日 地福〜名草 上り C56−160



C57−1、C56−160 重連(仁保駅にて)
(2006/7/15)



 

C57−1、C56−160 重連(仁保駅にて)
(2006/7/15)


平成21年8月1日上り プッシュブル運転
黒田和幸




平成21年5月6日 大歳駅にて上り
蓑毛星二



C56−160コンプレッサー故障修理でDD51−844( 新山口 補機常備)代用臨時運行
平成22年5月4・5日 C56の復帰は8日以降の見通し
平成22年5月4日 上り 渡川にて 中川貴博
 


 

山口線のキユニ28の思い出話
沖田典之

昭和53年の春、午後3時頃、小6だった僕は小学校からいつものように下校していました。その通学路上の踏切で益田発小郡行きの普通列車540Dを見たのですが、その先頭に立っていたのは見慣れないピカピカの新型郵便荷物車ではありませんか。一般色で身を固めたその車はアッという間に目の前を通り過ぎてしまい、形式を読みとることもできません。

「新車だ!」

僕はあっけにとられてしまいました。その頃の山口線を走っていた郵便荷物車といえばキユニ17にキユニ19という老兵で、子供の目に見てもかなりくたびれた車が配属されていたので、新車(実はキロ28の改造車)の新しい塗装はとても眩しく見えたものです。

早速次の日(だったと思う)に学校が引けた後、宮野駅に立ち寄り新車の郵便荷物車が連結されている小郡行540Dを見に行きました。当時の宮野駅はれっきとした有人駅なのでホームに入ろうとすれば入場券が必要なため、改札口からの観察となりましたが、停車した540Dは改札口から少し距離があったものの、先頭車のナンバーはキユニ286と読み取れます。その頃キハ20等が一般色から首都圏色に塗装変更され始めていました(僕は首都圏色のことを勝手に「塗り忘れ」と呼んでいました。)でもこの新キユニはキリリと一般色に身を固め、白くて新しい郵便室の明かり取り窓や真新しい幌に2灯ライト、そしてなにより裾が絞り込まれた優雅なボディはそれまで特急用か急行用でしかお目にかからなかったものです。山口線へのキハ47系集中投入はこれより約1年後のことであり、旅客車でさえキハ17が大手を振って連結されていたこの頃、事業用車とは思えない立派な車体は、駆け出しの鉄道ファンだった僕の心を一度で捕らえて離さないほどのインパクトがありました。

僕の記憶には間違いがなければキユニ286が小郡区に配属されて、まずキユニ17が姿を消しました。キユニ17はもともとキハ17がタネ車なので、割合整った顔立ちで印象が薄かったせいであまり記憶に残っていません。

キユニ19の方ですが、この年の年末頃にキユニ192が、なんと一般色から首都圏色に塗り替えられました、元々切妻車体に、とって付けたような運転台で特異なマスクだったのですが、この塗装色変更で凄味を増したような印象を受けました。

翌54年、山口線にSLが復活することになりました。皆さんよくご存じのC571による「やまぐち」号です。確か6月29日だったと思いますが、C571の初めての試運転があり、平日だったので復路を学校帰りに見ることにしました。この日は朝から梅雨の大雨で、C571は遅れに遅れての初運転です。線路端でなかなか来ない試運転列車を待っていたとき、また540Dを見ました。接近するキユニは首都圏色なのでキユニ19かなと思ってたのですが、ライトが2つです。なんと首都圏色のキユニ28。キユニ286が塗装変更したのかと思ってナンバーを見れば、キユニ288。山口線2両目のキユニ28は首都圏色で追加投入され、色違いの2両が普通列車の編成端を飾ることになりました。

キユニ288が投入後キユニ191が姿を消し、山口線の郵便荷物車はしばらくの間キユニ28×2、キユニ19×1で運用されました。

さて一般色のキユニ286がいつ頃首都圏色に変更されたかについてですが、これは昭和54年暮れから55年の2月頃だったと記憶します。55年3月のSL「やまぐち」号の2年目の初運転を小郡駅まで見に行ったときに、キユニ286を見たときには、確実に首都圏色になっていました。

よって宮沢のキユニ28×2両の色違いで、山口線の普通列車を再現しようとすると時代設定は昭和54年春又は初夏から昭和55年春までの約1年間がベストとなります。その頃の小郡区配属のDC達を参考までに上げておきます。下表のDCからキユニ28を小郡よりに1両連結して5〜6両程度で自由に組み合わせれば、小郡〜益田間直通普通列車の出来上がりです。表には通勤用のキハ35も含まれていますが、当時は平気で益田直通に連結されていました。もちろん特急「おき」はキハ181系6連(キロを含みますがキサシはなし)、急行「つわの」はキハ58・キハ28・キハ58の3連。後はSL「やまぐち」号が赤いナンバープレートのC571+青い12系客車5両です。(C571の予備車となっていたC581は緑色のナンバープレートでした。)

 

★昭和54年〜55年にかけて小郡区配置の急行、近郊、通勤用DCの塗装について

 キハ20 首都圏色
 キハ23 一般色と首都圏色
 キハ25 首都圏色(一部、一般色が残っていたと思います)
 キハ26 急行色(一部、首都圏色)
 キハ28 急行色
 キハ35 一般色と首都圏色
 キハ40 首都圏色
 キハ47 首都圏色
 キハ58 急行色

今回の宮沢製キユニ28のおかげで、山口線DCの一番おもしろい頃が再現できるようになりました。あなたの家のレイアウトにもキユニ28を投入して、昭和50年代中頃の山口線を再現してみませんか?

(今回の内容は大半を記憶に頼って書いています。当然、勘違い、記憶違いも多々あろうかと思います。当時の鉄道誌等をお持ちの方や、当時山口線で撮影されている方々のご指摘などを頂くことが出来れば幸せです。)

「キユニ286(一般色)が先頭の普通列車 540D 次位にキハ35(首都圏色)のグロベンが見える」
宮野〜仁保間 昭和54年9月

「キユニ286(一般色)が先頭の普通列車 536D」
上山口〜山口間(天神橋の踏切) 昭和54年10月

「キユニ288(首都圏色)が先頭の普通列車 540D」
宮野駅(荷物の積み下ろし作業中) 昭和54年9月


 昭和30年代、蒸気機関車全盛期の山口線をNゲージで再現しよう

沖田典之

○ 今年、関水金属(カトー)から、待望のNオハ35系が発売となりました。カトーからは約10年前にHOのオハ35系が発売となっていて、当時、そのままNでの発売を期待された方もいらっしゃったようですが、このたびようやく発売の運びとなりました。これまでNでのオハ35系といえばトミックスから戦前・一般形が、またグリーンマックス(以下GM)からは車体側板を共用し、屋根板と妻板を差別化することで戦前一般形と戦後形の未塗装キットが発売されていました。どちらも出来は平均的な水準でしたが、きっと誰もが持っているローカルレイアウト上の主力旧型客車、カトーのスハ43系ナハ10系と並べた時に、トミックス製は少々小ぶり、GM製は腰高な上に、塗装や仕上がりをカトー製品と並べるためには、それなりの熟練を要していたことから、この度のカトー製の発売は多くのモデラーが待ちこがれていたものではないでしようか。しかも戦前から戦後にかけて作られた丸屋根の一般型だけにとどまらず、大量生産されたのに知名度が低い戦後形まで製品化されたことは賞賛されるべきでしょう。さらにオハ35については一般的なデッキ半絞り車(700番以降)が製品化されましたが、オハフ33については半絞り車が存在しないため、(そのためGM社は製品化していない)、特徴的な食パン形(キノコとも呼ばれる)を別にモデル化されていています。

○ さて、今回製品化されたオハ35系を含め、市場に出回っている茶色の旧型客車は、一部を除き、塗色は「ぶどう色2号」と呼ばれる明るめの茶色で塗られています。この塗色が旧型客車に採用されたのは、昭和34年頃からです、これより前は「ぶどう色1号」という暗い茶色で塗られていました。現在のNゲージ界の旧型客車はほとんどの完成品が、まるではんを押したように「ぶどう色2号」で塗装されているので、未改造で気軽に楽しもうと思えば、昭和30年より後半で牽引機や編成を考えた方が無難です。

 

牽引機は何がよいか?

○ 山口線の旅客列車の牽引機は戦前から戦中にかけては8620形が、戦中から昭和30年代にかけての主力はC58形でした。この時代の客車は「ぶどう色1号」の旧塗色なので今回の主題とは少々はずれるので、参考程度に記述しますが、8620形は当時の山口線の新聞写真やニュース映画の映像から推測するに、標準形のデフ付きとデフなしの両方が在籍していたようです。これはマイクロエースから好みのタイプ(門デフ付きはだめです)を入線させれば良いでしょう。C58は特に異端車は見あたらず、一般的な形態を模型化しているカトーのC58で充分でしょう。

 

○ さて今回の主題となる昭和30年代ですが・山口線にD50形の軸重改造を施したD60形が続々と入線し、総勢10両で旅客のみならず貨物輸送にも投入され客貨両用で活躍をするようになります。現在県立博物館でD601号が静態保存されていますが、これの煙突周りにはC571の鋭角的なものに比べて、少々平べったい集煙装置が付いています。これは後から取り付けられたもので、山口線投入時には付けられていませんでした。

 

○ このD60はマイクロエースが製品化しています。直方区と岩見沢区として単品が発売され、どちらも標準デフ付き(モデルは点検用穴が開いているが、山口線用は開閉式のフタ付)ですが、形が微妙に異なっています。山口線用に似ているといえば、先端がカットされていない岩見沢区の方ですが、ボイラー上のハシゴの取り付け位置は直方区と称する製品が近似です。どちらの製品も集煙装置は付けられていません。デフの形の方が目立つので、岩見沢区を購入すればよいでしょう。どうしても集煙装置が取り付けたければ県立博物館保存のD601を参考に、銀河モデルのロストワックスパーツ(現在はほとんど絶版売り切れ)の中から形の似たものをチョイスするのが良いでしょう。その他、目立つところでは、前照灯が小型のシールドビームに交換されていました。

 

○ その後、昭和40年頃に中央本線(上諏訪区)、信越本線(長野区)、北陸本線(福井区)、常磐線(水戸区)の電化で余剰となったD51が次々に転入、D60を廃車に追い込み、山口線から煙が消えるまで貨物を中心(旅客列車も2往復有)に活躍しました。

 

○  昭和39年頃の客車配置表から

小郡客貨車区

石見益田客貨車区

スハ32(全車丸屋根)

32両

オハ31 

2両

オハ35 

15両

オハ60 

3両

オハ55(オロ36格下車)

1両

オハ61 

10両

スハフ32(全車二重屋根)

7両

オハユニ61 

4両

オハフ33 

12両

オハニ61 

1両

オハユニ61 

2両

 

 

スハニ31(全車二重屋根)

2両

 

 

マニ60 

8両

 

 

 

小郡客貨車区

○ 当時の小郡客車区の客車は山陽本線の普通列車も担当しており、この配置表の客車全てが山口線を走っていたわけではありません。そうなってくると、主要幹線である山陽本線と地方線である山口線とでは、格に大きな差があるわけですから、使用客車も古い物、格の低い物が山口線に入っていた可能性が高いと思われます。

○ それでは一形式ずつ解説していきます。

○ スハ32は32両配置で、小郡区の最大勢力。スハ32は初期の二重屋根車と後期の丸屋根が存在しますが、小郡区ではすべて後期の丸屋根車。完成品は長谷川モデモ(以下モデモ)、プラキットはGMから製品化されています。モデモの完成品は最近再生産されていないので、探すのは難しいかもしれません。

○ 次にオハ35。15両の配置のうち、丸屋根の一般型が4両、半絞りの戦後型が11両という構成で、戦後型が圧倒的に多数です。オハ55という聞き慣れない客車が1両配置されていますが、決してレッドトレインではありません。戦前の特急「つばめ」にも連結されていた2等車〔昭和30年代は1等並ロ〕オロ36を2等(ハザ)に格下げした車です。模型ではスハ32同様、モデモから完成品が発売されていますが、単品発売はなく6両セットの中に含まれています。製品は2等青帯が塗られていますので、オハ55にするためには青帯を車体色「ぶどう色2号」で塗りつぶす必要があります。オロ36(オハ55)は他の一般客車の窓幅100cmに比べて130cmとかなリ大きく、編成に含めると良いアクセントになるでしょう。

○ 続いて緩急車。スハフ32スハ32に車掌室が付いた形式。スハ32同様に初期二重屋根車と後期の丸屋根が存在し、完成品はどちらも長谷川モデモから発売され、単品発売されています。小郡区はスハ32と逆で、全車二重屋根車で7両配置でした。

○ オハフ33は12両在籍。戦前型が4両、戦後型が8両という構成比です。合造車はオハユニ61スハニ31の2形式。オハユニ61は前期形と後期形が1両ずつ配置されていたので、入手できた車両をそのまま入線させれば良いのですが、残念ながらオハユニ61は完成品が発売されていません。GMのプラキットもないので、各社から発売されているエッチングキットを組み立てるか、マイクロエースから発売中の北海道用客車セットにスハユニ62(オハユニ61前期形とほぼ同型)が入っているので、これで代用するのが手っ取り早いと思います。

○ スハニ31はやはりモデモの6両セットに含まれているので、所有されている方はチョイスしてください。スハニ31スハ32同様に初期の二重屋根車と後期の丸屋根車に分類できますが、小郡区配置は2両共二重屋根車です。

○ 荷物車は当時の代表的なマニ60ばかり8両配置されています。その全8両共鋼体化客車オハニ61オハユニ61から再度マニ60に改造されたタイプで、ずばりカトーからそのタイプのマニ60が製品化されているので、これを利用するとよいでしょう。

 

石見益田客車区

○ 続いて石見益田区のオハ31は17m級二重屋根車客車。2両配置されていて、塗色も「ぶどう色2号」のカトー製品がそのまま使えそうに思えますが、残念ながらカトー製品は戦前の3等車を表記する赤帯が付いていて、このままではアンバランスになるので、編成に加える場合は面倒でも帯を消すようにしてださい。直接帯だけを消してもOKですが、カトー製オハ31系の「ぶどう色2号」と一番入手が簡単なGMカラーの「ぶどう色2号」とでは少々明度が異なります。気になれば少心面倒ですが車体を分解して、車体の塗装替えすることになります。カトー製オハ31系は同社初期製品のため分解がとても大変ですが、マッハ模型から発売された「こじあけ器」なるものがあれば便利です。

○ オハ60は戦後最初の鋼体化客車。切妻20m級の車体に狭窓がずらりと並んでいて魅力的な客車ですが、完成品はまだ発売されていません。レールロード社等からエッチングキットが発売されていましたので、これを入手、組み立てるしかありません。

○ オハ61はセット販売ですが完成品がマイクロエースから、プラキットがGMから単品発売されています。残念ながらマイクロエース製は同社Nゲージ復活時初期に発売されたものなので、造形が現在のマイクロ製と比較すると今ひとつです。GMキットは腰高なところを修正してやれば秀逸ですが、他社の完成品と同一クオリティを確保しようとすると、少し熟練が必要です。とにかくこのオハ61、実車はオハ35に次いで日本で2番目の1052両という大量製造両数を誇る3等座席車ですが、バリエーションに乏しいせいかNでは決定的な完成品が発売されていません。ぜひカトーからオハ35シリーズと同一のクオリテイで完成品を発売してほしいところです。

 

○合造車オハユニ61は、先に書いたとおり。オハニ61は妻面車掌室窓のない前期形が1両配置されていました。GMからプラキットが発売されていますが、これは車掌室側妻面に窓がある後期形。プラ板と瞬間接着剤で窓を埋めるか、オハニ61のキットをもう一つ購入して、窓のない客室側妻板を車掌室側妻面にもってきて組み上げれば、コストパフオーマンスは悪いものの簡単に前期形の出来上がりです。ただオハ61の項で違べたとおりで、完成品の水準にもっていくには塗装等、少々熟錬が必要です。

 

編成例

←小郡(現・新山ロ)             

益田→

・昭和35年頃の記録写真より 牽引機はD60客車の塗装は全車ぶどう色2号

マニ60

スハニ61

スハ32

スハ32

オハ35

スハフ32

 

・昭和39年頃鉄道誌の写真より 牽引機はD60客車の塗装は全車ぶどう色2号

スハフ32

オハ35

スハ32

スハフ32(推定)

 

 

・D60(山口線管理所)配置車リスト

D601    D604    D605    D606    D607    D608

D6010   D6011   D6013   D6014   (配置10両)      

 


山口県周辺で活躍したキハ55系について
(2006/2/4)  

沖田典之

◆      まえがき

Tomixからキハ55系が発売されることになりました。このキハ55系、Nゲージ界では、およそ四半世紀前に学研から完成品が発売されたのが最初ですが、実車の方はJRの発足を目前に控えた昭和61年度に全車廃車。キハ58系の陰に隠れたマイナー形式のためか省みられることも少なく、長い間、決定版となる製品が発売されませんでした。ようやく今回の発売の運びとなりましたが、国鉄解体から早20年近く。キハ55系の活躍を知らないモデラーも増えてきたことから、Tomixキハ55系購入計画の一助となるように、山口県周辺の動きを中心に実車解説をしてみることにしました。ただし、山口県内で直接使用されていない形式については、周辺での使用実績が記述してあります。

また、今回Tomixから発売されるのは、キハ55、キハ26、キロ25、キロハ25、キユニ26の5形式で、製品化されなかったキニ26、キニ55、また、強力試作形のキハ・キロ60形の説明は省略します。

私自身若輩者であり、実見した部分はわずかです。後述の「準急色」なんぞは見たこともない年齢なので、古い編成等は鉄道誌に掲載された写真等から推定したものが多く、誤り等が多々あると思われます。誤りや不明部分の御教示、御指摘等をいただければ幸いです。

 

◆      用語の解説(国鉄の等級表示について)

これから実車解説をするにあたり、等級の変更について触れておきたいと思います。最近の若い鉄道ファンにとって等級制は、もはや太古の制度らしく、なかなか正しく認識をされていないようです。知識をひけらかすようで恐縮なのですが、解説にあたり2等車や3等車という表現を避けることが出来ないので、簡単に解説しておきます。

明治5年(1872年)、新橋〜横浜間が開通して以来、日本の鉄道は長らく3等級制(等級記号イ→1等、ロ→2等、ハ→3等)でした。これが、昭和35年7月1日、1等が廃止となり2等級制となります。1等が廃止されたことにより、それぞれ呼称格上げが行われました(旧2等・ロ車→1等、旧3等・ハ車→2等)。更に昭和44年5月10日、等級制が廃止されてモノクラス制となります。それまでの1等(ロ車)に乗車する場合、乗車券の他にグリーン券を別途購入することとなり、この制度が現在まで続いています。

キハ55系はこの2度の制度変更をまたいで存在しているので、話がややこしくなります。キロ25を例にすると、昭和34年、新製当初は2等車として落成したキロ25はわずか1年後の昭和35年に等級変更で1等車となります。その後、昭和42年から2等車格下げが始まり、昭和44年5月1日の等級制廃止を迎えます。この日までに全車の格下げが完了していれば、2等車が普通車に名称変更するだけだったのですが、一部の車の格下げが昭和44年5月以降に持ち越しています。キロ25 51を例にとると、普通車格下げは昭和44年7月31日。5月10日が等級制廃止ですから、3ヶ月弱程グリーン車時代を経験しているのです。もっとも数年前から格下げが確定しているこの車に、手間とお金をかけて帯の色を塗替えたり、グリーン車の四つ葉のクローバーマークを貼ったかどうかは不明ですが、こういう事例があることも知っていただければと思います。

 

◆ キハ55系一族、その塗装の変換

キハ55系新製開始(昭和31年から)当初は、一般に「準急色」と呼ばれた塗装を身にまとっていました。これは、車体全体に黄色味の強い「クリーム2号」を塗り、車体中央(窓下に細線)と樋部分を「赤2号」で配したものでした。最近、一部私鉄において旧国鉄キハ20形にこの塗装を施した車が出現しており、気になる方はこちらを参考にしてみてください。

昭和34年9月から東北本線急行「みやぎの」用キハ26キロ25から使われ始めた塗装は、「クリーム4号」をボディーに塗り、窓まわり、樋、車体スソに「赤11号」を配しました。この塗装は、一般に「急行色」と呼ばれますが、今日我々がキハ58系などで「国鉄急行色」等と呼んでいる塗装とは、運転席周辺の塗り分けが異なっているので、今回、この説明では便宜的に「急行色T」と呼ぶことにします。急行として使用されることになったキハ55系については、順次この塗装で落成、在来車は変更されました。

昭和36年から新型急行用DCとしてキハ58系が量産されることになり、塗装は前述の「急行色T」から塗り分けの一部が変更された、お馴染みの「急行色」(「クリーム4号」「赤11号」の配色は変わらず)が登場しました。キハ55系も準急色を廃し、この色に統一されることになりました。また、「急行色T」塗装車も順次塗装変更され、キハ55系の塗装は統一されました。これを便宜上「急行色U」と呼ぶことにします。

昭和40年代に入り、キハ58系が全国のDC急行を席巻した後は、キハ55系は各地の急行増結車や普通列車用として運用されるようになります。しかしキハ20系キハ10系でお馴染みの、「一般色」(「クリーム4号」と「朱4号」のツートンカラー)に変更されることはなく(ただし、郵便荷物車等に改造されたものを除く)、「急行色U」を保持し、面目を保ちます。

しかし、「急行色U」については、昭和40年代後半から樋部分と正面上部分の「赤11号」がかなりの数で省略されるようになりました。グリーン車の淡緑帯同様に、いつの間にか消えてしまった、という感じでした。それでも山陰本線を中心に運用されていた、米子、西鳥取、福知山の各区に配置されていた車については、なぜか正面の運転席上部分のみ、赤11号帯が終焉期直前まで残されていて、これらの車は昭和50年代前半までは急行列車の増結用として気勢を上げていた事は記憶しておくべきでしょう。

昭和50年代に入ると、電化の推進、合理化による列車削減、編成の短縮等でDC急行という存在が数を減らし始めます。このため、急行運用という本来の仕事から失業したキハ58系が、堂々とローカル運用に入り込んでくるようになりました。これと前後して、ローカル線のクイーンとして君臨したキハ55系も、ついにキハ40系等に使われて始めた、車体全面に「朱5号」を塗る「首都圏色」に塗装変更をされる事になります。しかし、これは全車に及ぶことはなく、一部のみがその対象となりました。残念ながら山口県内では、厚狭区、小郡区、岩国区共にキハ55系の「首都圏色」化が早くに進行し、早期に廃車されたものを除いて「急行色U」で終焉を迎えた車はおそらくなかったものと思われます。

 

キハ55形

準急用気動車の始祖で、昭和31年に5両が試作され、上野〜日光間の準急「日光」でデビュー。塗装は軽快な「準急色」で、内装も当時の最新急行用客車ナハ10系とほぼ同様の腰掛を装備して、好評を博しました。それで蒸機牽引の急行よりも俊足であれば人気が出ない訳がなく、昭和36年までに216両もの大量生産がされ、全国の準急・急行列車で活躍することになりました。外観では昭和31〜32年に生産された1〜46がバス窓装備。昭和33〜36年まで生産された101〜270がモデルチェンジされ、一段上昇式窓(キハ58系と同じ)を装備して両番台車の大きな相違点になっています。また、1〜15のみ、DT19台車を採用していますが、他はDT22に変更されています。

 山口県では、小郡区、岩国区に配置され、急行「山陽(岡山〜博多間)」、準急「あきよし(山口〜博多間)」「にしき(岡山〜岩国間・呉線経由)」「ちどり(広島〜米子・芸備木次線経由)等で活躍しました。

 昭和36年からは後継の急行用気動車キハ58系の生産が開始され、早くも第一線を追われることになりますが、その後も主要急行列車への増結や、新しい準急列車増発時等に使用され、親しまれます。

 昭和44年から53年にかけて、4両がキニ56に改造され、四国と常磐線で使用されました。

 その後、急行をキハ58系が独占した後はローカル運用が中心となりましたが、2エンジン搭載が幸いして勾配路線で重宝されました。昭和50年代中頃から老朽化等を理由に廃車が進行し、昭和61年度をもって形式消滅しました。

 残念ながら、JRに継承された車両はありません。

 

キハ26形 

キハ55に遅れること2年、昭和33年4月から新製が開始された1エンジン搭載車です。DC準急列車が増加する中で、平坦区間だけを走る列車も出現してきたため、2エンジン搭載のキハ55ばかりでは不経済という理由で登場しました。新製開始当初の0番台はバス窓車でしたが、半年後にはキハ55同様のモデルチェンジが実施され、一段上昇式窓となった101〜の生産が始まりました。このためキハ26のバス窓車は、キハ55の46両に比べて22両と少数です。

昭和36年度からはキハ58系の生産が始まり、キハ26の生産はそれまでの3年間と短期間でしたが、それでも194両もの大量増備で全国津々浦々の急行・準急列車で活躍しました。山口県内では上記の「山陽」や「あきよし」等で活躍。キハ58系生産開始後の処遇はキハ55と同様です。

キハ26は後述のとおり、昭和42年度から昭和44年度にかけて、キロハ25(15両)とキロ25(61両)の全車が2等車格下げ後にキハ26に編入されているので、総数270両の大世帯になります。

しかしわずか4年後の昭和48年度からはキユニ26(25両)、キニ26(4両)への改造タネ車に29両が供出されて数を減らします。しかも、この改造のタネ車はバス窓車有り、一段上昇窓車有り、キロハ・キロの編入車有りと大変ややこしく、キハ26の履歴を複雑にしています。

その後、昭和50年代中頃から老朽化で急激に数を減らしましたが、山口県では案外長命で、昭和59年頃まで首都圏色を身にまとい活躍を続けます。話しは前後しますが、昭和50年頃の山口線の状況は、普通列車のピカイチ車両といえば、急行「つわの」間合い運用のキハ58系(唯一の冷房車)は別として、他はキハ23キハ20(25)が主力でした。場合によっては、オールロングシートのキハ35や座席のモケットがペラペラのキハ17がまだ幅を利かせていて、そんな中にキハ26が連結されていると喜んで乗ったものでした。ずらりと並んだクロスシートや便所とは別に設置された洗面台等の装備は風格を備え、腐っても準急用車両、まさに「掃きだめの中の鶴」でした。キハ47系投入後は老朽化や陳腐化は免れず、次第に影が薄くなり、1両また1両と休車又は廃車。このまま県内のキハ26も全廃かと思われました。

ところが昭和60年3月14日全国ダイヤ改正では、地方主要都市圏においてデータイムにおける等時隔で頻度を増した列車体系を整備する目的で、「試行列車(α列車)」が設定されることになります。山口県内は下関周辺で設定され、山陽本線は下関〜小月、山陰本線では下関〜小串間に区間列車が増発されました。山陰本線は既存のDCだけでは運用の増加に対応出来ず、廃車を前にして使われずに留置されていたキハ26数両がこの運用に駆り出され、最後の花道を飾ることになりました。中には激しく退色していたキハ26もありましたが、他の車両に混じってよく活躍しました。「試行列車(α列車)」は、幸い乗車率も好調だったことから昭和61年3月3日ダイヤ改正で、そのほとんどが定期列車に格上げされましたが、編成短縮が図られたために運用車両数は減り、山口県のキハ26の命運はここに尽きました。

 

キロ25形

昭和34年から2年間で61両が製造された2等車。国鉄ディーゼルカー初めての全室2等車でもあります。後のキロ28と異なって、運転台を装備します。側窓は全車一段上昇式で、他の仲間達に存在するバス窓車はこの形式だけありません。座席は回転式腰掛で、リクライニング機構なし。

「準急色」時代は、帯色の変更を2回も実施しました。新製当初は、2等車ということで客車並に青帯を配しましたが、編成を統一するという目的で他車同様に赤い線に塗り替えられました。ところが3等客の誤乗が多発したため、短い間に再び青い線に変更されました。当時の急行「山陽」の複数のカラー写真を見ると、確かにキロ25が青帯で写っているものと赤帯に写っているものがあります。

昭和34年、天王寺〜白浜口(現・白浜)で運転の準急「きのくに」の増結や、博多〜小倉〜大分〜熊本間準急「ひかり」のキロハ25置き換え(キロハ25は博多〜小倉〜都城間運転に変更)等でデビュー。その後、全国の急行、準急の2等車として大活躍しました。山口県に関係する列車だけでも、急行「山陽(岡山〜博多間)」、準急「あきよし(山口〜博多間)」「やくも(米子〜博多間)」「にしき(岡山〜岩国間・呉線経由)」等に連結されています。

しかし、華々しい活躍はわずか5年程度で、昭和30年代後半から始まった急行用車両の冷房化では、気動車の優等車両はキロ28のみがその対象になりました。その結果、選から漏れたキロ25は昭和42年から44年までの間に格下げが実施され、キハ26に編入、400番台を名乗ります。車内設備はそのままとされ、各地の急行列車の指定席車として重宝されることとなりました。山陰本線では昭和50年代前半まで、急行「石見」等で、グリーン車はキロ28、指定席車がキハ26 400番台、自由席車がキハ58又はキハ28という編成を見ることが出来ました。小郡区においては昭和43年7月から、もともと配置されていたキロ25 51が格下げされキハ26 451を名乗り、昭和52年にキユニ26 20に再改造されるまで在籍していました。

その後、前述のとおり昭和51年度から7両がキユニ26に、21両が通勤形(ロングシート化・塗装は急行色のまま)改造でキハ26 600番台に改造されました。601〜616は東唐津区に配置、筑肥線の運用で博多駅まで足をのばしていたので、博多駅ホーム等でその姿をご覧になった方も多いのではないでしょうか。617〜621は南九州用で車内中央部の4ボックスのみクロスシート(キロ25用のオリジナルシート!)がそのまま残されていて、特異な車内レイアウトでした。私事ですが、僕は昭和58年に志布志線でこのキハ26 600に初めて乗車しましたが、最近ではキハ58等でおなじみの一部ロングシート化車両も当時は大変珍しく、車内にいた他のお客さんのひんしゅくを買いながらも車内の写真を撮影して帰りました。

なお、再改造されなかった33両も含めて、61両全てが昭和60年度までに廃車となっています。

 

●キロハ25形

昭和33年から昭和35年までの間に、15両が新製された2・3等合造車。

2等(ロ)車側にキロ25同様の運転台が付いています。車内は2等室が回転式腰掛け(非リクライニング)装備で、3等室が後ろ側でキハ26等と同様のボックスシートです。おもしろいのは、他の1エンジン装備車、キハ26キロ25がエンジンを運転台寄りに装備しているのに対して、キロハ25だけは後ろ側に装備している事です。おそらく、運転台側にある2等車内の振動や騒音を少しでも抑えようとしての処置と思われ、当時の国鉄技術陣の気配りなのでしょう。今回、Tomixの試作品を見ると床下を他車の流用で済ませずに、キロハ25専用の床下パーツを起こして模型化しています。同社のやる気を感じる部分ですので、ぜひ手にとって他車と比較してみてください。

昭和33年製造の1〜5は、3等車客室窓だけがバス窓で外観の大きな特徴。博多〜小倉〜大分〜熊本間準急「ひかり」と上野〜平間運転の準急「ときわ」でデビュー、その後、西日本では陰陽連絡列車「たじま」「丹後」「丹波」「みまさか」、四国の「阿波」「いよ」「土佐」等で使用されました(いずれも準急)。

昭和30年代後半から、気動車急行の冷房化が始まりましたが、1等車(旧2等)の冷房改造は、リクライニングシートを装備したキロ28に絞られました。選から漏れたキロハ25は昭和42年から格下げが施行され、形式はキハ26 300番台を名乗ります。車体等は未改造で1等室内はそのまま残されて普通車解放されています。格下げ後、中国地方では浜田、鳥取区に都合6両が配置され、山陰本線を中心に活躍しました。昭和48年から15両全てがキユニ26へ再改造され区分番台が消滅しましたが、それまでは全車「急行色U」を身にまとっていたようです。

 

●キユニ26形

昭和48年から昭和55年までの8年間に、キハ26をタネ車にして25両が改造名義で登場しました。タネ車がキハ26一次型(バス窓)二次型キロハ25一次型(バス窓)、二次型格下げのキハ26 300番台キロ25格下げのキハ26 400番台と多彩な顔ぶれのため、その形態は多様です。

今回Tomixは、キロハ25(二次型)がタネ車のキユニ26を製品化します。両数的にも9両(4、5、7、8、10〜13、17)と最大勢力であり、特に四国に配属されていた10〜13、17が改造当初、「急行色U」に塗装されていたので選ばれたものと推測されます。

山口県内の路線には直接の配置はありませんでしたが、4、5、8の3両が浜田区に配置、山陰本線で運用されて山口県にも顔を出していたようです。この3両は後に鳥取区にいた7と共に岡山区に集結したので、岡山駅在来線ホームで見かけられた方がいらっしゃるかもしれません。四国は当初4両(他形式からの改造を含め総計7両)共に高知区の配置でしたが、10が大分区に転属した以外は高松区に配置替となりました。急行列車に併結することが多いためか「急行色U」で塗装され、四国独特の丸い小さなヘッドマークを付けて高松駅ホーム端でその姿を見ることが出来ました。

塗装については「急行色U」だけでなく、使用される路線に応じて「一般色」で塗装されて落成した車も存在します(Tomixさん、是非一般色も製品化してください)。どちらの塗装も昭和54年頃から順次「首都圏色」に塗装変更されました。

キユニ26は鉄道郵便荷物輸送が縮小された昭和59年前後から廃車が進み、昭和61年度に最後の1両が廃車となり形式消滅しました。国鉄がJRになったのは、昭和62年4月なので、JRに継承された車両はありません。

  資料1 / 資料2

 



外装をぶどう色に統一

 


3号車の座席はブラウン調に

 

SLやまぐち号レトロ客車リニューアル

(2005/2/12)

JR西日本は、新山口・津和野間を走るSLやまぐち号のレトロ客車のリニューアルを進めている。運行開始から26周年を迎える今年、ぶどう色にお色直しをして、3月19日(土)から運転する。

SLやまぐち号は、79年8月1日に運行を開始。88年には”古き良き時代のSL”のイメージを再現しようと、5両編成の客車をそれぞれ展望車、欧風、昭和風、大正風、明治風とレトロ調に変更。今回のリニューアルでは、1号車の展望客車(茶色)と2号車の欧州風客車(緑色)の外装を他の3両と同じぶどう色に統一する。また、3号車の昭和風客車と5号車の大正風客車には、べービーカーなど大きな荷物を置けるスペースを確保。さらに、昭和風客車の座席の色をグリーンからブラウン調に一新する。

昭和40年代、国鉄の合理化によって全国の蒸気機関車が廃止され、73年10月には山口線からもSLが姿を消した。しかし、その後多くのファンや地元市町村を中心に復活の気運が高まり、79年に全国で最初に山口線にSLが復活、今年で26周年を迎える。現在、「貴婦人」の愛称で親しまれる「C57−1」が新山口・津和野間の62.9キロを約2時間かけて運行している。

これまでの利用客は累計160万人を突破。03年、新山口駅にのぞみが停車するようになってからは関東地方から足を運ぶ人も増えている。

05年度は、25周年の昨年よりも10日少ない延べ119日間運転される。JR西日本では、運転初日や復活記念日の8月1日などには様々なイベントを計画。7月の運転日(計18日間)にはC57とC56の重連運転やマイテ49−2(一等展望車)の連結も予定している。

古本明山口駅長は、「新しく生まれ変わるSLやまぐち号を楽しみにしてもらいたい。今後は高度な技術と体力が必要となる機関士の育成にも力を入れていきたい」と話している。

2005年2月12日(土)サンデー山口掲載
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気動車シミュレーター
 (2003/6/7) 

 日本広しと言えども、ここ山口博物館にしかない展示物のひとつに、気動車シミュレーターがあります。これは、実際に山口線を走っていたキハ58型車両の実物の運転席を使った本格的な運転シミュレーターです。小郡駅から津和野駅までの山口線実写映像は、SL山口号が運転されない日に、同ダイヤで専用臨時列車を走らせて撮影したものです。40km/hの定速で撮影しなければならず、離合駅での急停止・後退・急発進といった高度な運転技術が必要となり、運転士にもベテランの方があたられました。線路勾配のデータや気動車のエンジン特性をきちんと計算した上で列車の速度が決まるため、上り坂で推進力が不足すると停止してバックしてしまうこともあります。

 自動車と違いかじ取りのためのハンドル操作はありませんから、適当に発進停止するだけなら初心者にも簡単に操作できます。しかし、決められた場所で列車を正確に止めることは非常に難しく、制限速度を守り定刻に列車を走らせることは意外に難しいことを実感することができます。そのため初心者からマニアの方まで幅広い層に人気の高い展示物となっています。
(山口博物館理工担当学芸員 家永善夫)

 

2003年6月7日サンデー山口掲載
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JR小郡駅、10月1日から「新山口駅」
(2003/4/26) 

 小郡町の岩城精二町長はこのほど、ダイヤ改正がある10月1日からJR小郡駅を「新山口駅」に改名することを決断した。これにより、県内で初めて新幹線のぞみ号が停車する見通しとなった。

 のぞみ号停車については、93年の運行開始以来、県や小郡町、地元経済界などがJR西日本に対して30回にわたって要望。この1月と2月にも、県央部の2市4町(山口市、防府市、小郡町、秋穂町、徳地町、阿知須町)が要望書を提出している。

 これに対してJR西日本は、小郡駅の改名を判断材料に挙げ、この提案を受けた県が今月7日、小郡町にも連絡。ダイヤ改正の行政手続きなどがあり、早急な回答が求められていたため、町は17日に町議会の全員協議会を開き、改名を決めた。翌18日には、岩城町長が県庁を訪れ、二井関成知事に駅名変更了承の意向を伝えた。

 岩城町長は、今回の決断について「小郡駅は地域にとって愛着のある名前であり、改名には断腸の思いだが、首都圏や関西圏の利用者に分かりやすい名称にすることは利用促進につながる。

 のぞみ号停車は、小郡地域の発展にもなる」と説明。また県に対して、のぞみ号停車本数の確保をJRに働きかけることと、駅名変更に伴う経費5、6億円の負担協力を求めた。

 二井知事は「未来を見据えた決断に敬意を表す」と駅名変更を歓迎すると共に、「出来るだけ多く停車するよう要望する。また、本数が決まりしだい、県としての役割を検討していきたい」と話した。

 駅名は、新幹線駅、在来線駅ともに変更。のぞみ号の停車本数は未定だが、町は1日片道5本程度を望んでいる。ダイヤ改正の詳細は7月に発表される予定。

2003年4月23日サンデー山口掲載
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小郡駅から新山口駅へ 2003年9月30日〜10月1日


 ヘッドマーク新山口駅


 ヘッドマークありがとう小郡駅


 ありがとう小郡駅 記念入場券



塗色を変更したC57−1 

 
はずされたC57−1集煙装置

SLやまぐち号が11月30日まで
復活時の姿にお”色”直し

(2003/4/12)

SLやまぐち号はこのほど、山口駅開業90周年・山口線全線開通80周年を記念して一部塗色を変更した。

変更したのは、機関車の動輪を動かす部品である主連棒、連結棒、滑り棒とナンバープレートの下地。いずれも鮮やかな赤色に変わった。かつて蒸気機関車配置区所では、ナンバープレートの赤は特急専用機関車を示すものといわれていた。また主連棒や連結棒には赤のほか、黒や緑などが使われていた。やまぐち号になる前のC57−1は、緑色の主連棒を装備した姿が記録に残っているが、1979(昭和54年)のやまぐち号運転開始時には今回と同じ赤色だった。今年度の運行が終了する11月30日までは、この塗色で山口線を走る予定。

この塗色変更は記念式典の直前、2日に決まり5日から実施された。前日4日の運行を終えたやまぐち号が午後9時頃車庫に戻ると、直ちに塗り替え作業が始まった。

塗り替えと同時に、200キロを超す重さがある集煙装置も取り外された。これはトンネル内での煙の流れをコントロール、すすが客室や乗務員室内に入り込むのを防ぐための装置。空調設備が整った現在の車両では、この装置がなくても特に問題ない。今回は、5日・6日の2日間限定で取り外されたため、やまぐち号の珍しい姿を見ようと、沿線には全国から鉄道ファンが集まった。

田丸道男山口鉄道部長は、「多くの人に喜んでもらえてよかった。機会があれば、また集煙装置をはずしたい。特別色で走っているこの機会に、地元の皆様もぜひご乗車下さい」と話している。

2003年4月12日(土)サンデー山口掲載
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 津和野にて
中尾博之

 

「SLやまぐち号」重連運行開始
あす、小郡駅に1時間停車
(2003/5/31) 

 SLやまぐち号があす6月1日から重連運行を始める。始発のJR小郡駅では重連運行初日を記念して、出発前の1時間、連結したSLを展示。なお今年は、重連運行日に限り集煙装置を取り外す。

 迫力あるC57−1とひとまわり小さなC56が2台そろって走る姿は、全国の鉄道マニアだけでなく多くの人に人気。またやまぐち号は今年、運行終了日まで一部塗色を変更、重連運行日には集煙装置がないという、貴重な姿を見せてくれる。

 当日は、午前9時から10時頃まで構内にSLを停車させ、写真撮影などを楽しんでもらう他、運転席などを公開する。

2003年5月31日(土)サンデー山口掲載
http://www.sunday-yamaguchi.co.jp/ 

 

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